[affi id=8]
1945年3月10日午前0時8分、325機のB29爆撃機が東京を襲った東京大空襲。
その作戦を計画、実行、指揮したのは当時アメリカ空軍の第21爆撃集団司令官カーチス・ルメイ少将でした。
日本の木造家屋を焼き尽くす最も効果的な油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾、エレクトロン焼夷弾など、非常に燃焼しやすい物質が入った焼夷弾を開発し、一夜にして東京を火の海にしました。
これにより住民8万5千人が死亡し(民間団体の調査では死亡・行方不明者は10万人以上)、4万人が負傷、100万人が家屋を失うことになりました。
これは単独の空襲では世界史上最大規模の虐殺と言われ、広島・長崎の原爆投下とともに永久に記憶されるべき戦争犯罪だと記録されています。
東京大空襲における死者や被害については、先に投稿したブログを是非ご覧ください。
>>東京大空襲の日 3月10日 被害と死者数
カーチス・ルメイの行動
カーチス・ルメイは、終戦までの期間、東京大空襲の後も大阪、名古屋などの都市をはじめ、地方都市に対する空襲を続けました。
そのように、一般市民が生活する地域を辺り構わず爆撃する彼のことを当時の日本人は「皆殺しのルメイ」「鬼畜ルメイ」と呼びました。
彼は第二次世界大戦の後に勃発した、朝鮮戦争でも空軍の司令官として働き、日本同様、無差別な空襲を行いました。
朝鮮戦争で彼が指揮し、投下された爆弾は66万9千トン。
爆撃は3年にわたり行われ、朝鮮半島の全ての都市を焼き尽くしました。
更に、ベトナム戦争でも彼はアメリカ空軍参謀長となり、焼夷弾の改良型であるナパーム弾をベトナム各地に投下し続けました。

カーチス・ルメイのその後と発言
カーチス・ルメイは生涯、過去に行った自分の行為を反省することはありませんでした。
彼は日本で行った数々の爆撃について、戦後、以下のように語っています。
「当時日本人を殺すことについて大して悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらすことだった。」
「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに我々は勝者になった。」
まとめ
日本は現在、韓国・中国から歴史認識の問題を突きつけられてますが、日本がアメリカに広島、長崎、東京大空襲に関して歴史認識の問題について迫ったことは未だありません。
また、無差別に行われた空襲について、被害者遺族が提訴した国内の損害賠償裁判はすべて棄却されている状況です。
おかしいですね。
学校で習わない、本当の歴史があります。
少なくとも我々日本人は、3月10日にはカーチス・ルメイの名前を思い出すべきだと思いました。